昭和44年7月27日 朝の御理解
御理解第50節「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ」
これは、お百姓さんならすぐ分かる事だなぁと。教祖様が、お百姓でおありになりましたから、まぁこういう一つの例、何時もこのお百姓に関する例をとって、御理解下さってありますですね。
やせた地に、どんなに良い種をまきましても、良いものが育つはずも、実るはずもありません。地が肥えておるということ。と同時に、そこへ良い種がまかれて初めて良い実りというおかげが受けられるのです。
とかく信心は地を肥やせと。とにかく信心は地を日頃肥やしておかなければ、良いおかげは受けられないというのです。ね、その時、さぁお願い事が出来たから、そのことだけを頂く為に信心をするといったものは、実にだから理に合わないことです。
まぁ何か、何というですかね、直ぐに効く肥料があるそうですから、まぁそういう肥料をした、出来たようなものじゃないかとこう思います。ね、本当その、常日頃から、地が肥えておらなければならん。
そこで常日頃から、地を肥やしておくということはどういうことであろうか。勿論常日頃からしっかり信心の稽古をしておくという事でございましょうけれども、ならその常日頃から信心の稽古を、例えば教会にお参りをしておるというだけは地は肥えんのです。
毎日お参りをさせて頂いて、地が肥える、まぁいうならば心が肥える、心が豊かになる。そういう稽古に本気で取り組んでの信心の稽古でなからなければ、地が肥えるということになりません。
地が肥えておらなければ良いものが生まれない。ね、地が肥えておれば、肥えをせいでも、その時に慌てて、ね、どうこうしなくても、ひとりりでに物が出来るようなものぞ。ひとりでに物が出来るようなおかげ。そういうおかげとはどういうようなことを、さしておられるのであろうか。ひとりでに物が出来るといったようなおかげとはどういうことであろうか。
私は今朝、ご神前にやらせてもらって、御祈念をさせて頂いておりましたら、★親子の、お母さんが子供をおんぶして、お母さんもあの防毒のマスクをかけてある。子供にも防毒マスクをかけられておる。そして、それをおんぶしてですね、そん、まぁいうなら毒ガスか何かをまかれとるかなんかでしょうね、その防毒マスクをかけて、そしてその逃げまどうておるところを頂いた。
どういうことであろうかと私は思うたんですね。そして、まぁそれはそれとして、御祈念を終わらせてもろうて、ここへ座って今朝の御理解を頂こうと思うて、教典を開かせて頂きましたら、御理解第49節、そのところの、この49節というところを頂く。49というところ。
ね、49という事は、始終苦である。何時も苦しいというのである。ね、49、始終という事は何時もという意味になる。9は苦しみの苦。始終苦。ははー、今日私が御祈念中に頂いたことはこのことだったなと思うた。
ね、世の中の多くの人はです、もう嫌なところは見まい、嫌なところは聞くまい。もう楽な方へ、楽な方へと、いわゆる逃げ惑うようにして慌てておる。自分も防毒マスクをかけておるなら、子供にも防毒マスクをかけれておる。
ね。例えば、ここへ、少年少女会があっておりますがです、ね、子供をお広前に一人にやるのは心もとない。自分が何時もかかりきって教育しておるのに、他所にやっては、しかも、一晩泊まりのことであるから、どういうようなことを聞いたり見たりするか分からんから、もうやらん方が良いというて、そこをこうよけておるのは、防毒マスクをかけておるようなもんですよ。
ね、神様にお任せして、ね、そこからお育てを頂く、自分が育てようというのじゃなくて、神様からお育てを頂こう、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという思い込みが出来てこなければ、私本当の事じゃないと思う。
または一般でいうですね、楽な方へ、楽な方へと動こうとしておる。ね、それは丁度防毒マスクをかけておるようなもんです。そういう生き方(はです?)何時も逃げまどうておるようなものであって。しかも防毒マスクをかけて逃げまどうておるようなものであって、ね、何時も始終苦である。何時も苦しいのである。
お任せしておるというくらい楽な事はない。そしてです、その私がその防毒マスクの親子が逃げまどうておるというそのことがです、なるほどこれが、こういう生き方であったら、始終苦。何時もが苦しいことであろうと。
楽な方へ、楽な方へとこう何時も逃げまどうておる。そんな楽なところが、簡単にあるはずはない。何処にだって昨日の御理解じゃないけど、一生が修行じゃといわれるくらいですから。
ならお釈迦様じゃないけども、この世はもう苦の世だと言うておられるのですから、もういうならばその苦というものは、もうこの世に満ち溢れておるのであるから、そこから逃れようたって、逃れられるはずはないのだ。
ね、そこでそのいわば、安全地帯とでもいおうかね、神様にお任せをする、神様のお懐の中に何時も抱きかかえられておる。神様は、(乳の身分?)乳を与えて下さるように、(悲母じゅう?)なら必ずお乳を与えて下さる。
母親の懐の中にあるような、そういう安心のいけれる地。いわゆる安全地帯がある。ね、そういういわば安住な地を求めての信心。ね、それには、私共がその、任せられるという信心をしなきゃいけん。
信心、だから初めからなかなか任せられんでしょう。やっぱり信心の稽古をしっかりさせて頂き、天地の親神様のお守りを受けなければ、お恵みを受けなければ、人間の幸せはあり得ないということが分かり、金光大神の言うて下さる事が信じられ、親先生がお取り次ぎして下さる、お取り次ぎの働きというものを信じさせてもらうところに安心がある。
そういう安心を目指す、そこで例えば、その親子のものが防毒マスクを付けて逃げまどうておると、いうことどういうことであろうかと思うたら、この49という、このところを頂くから、ははーこういう生き方が、何時もが苦労だなぁ。こういう生き方の人達の住まう世界が何時も、この世は苦の世だなということ。
金光大神御取り次ぎの道に生かされて、御取次ぎによって、生きていこうとするものの上にはね、始終苦ということではなくて、何時もが有り難い。何時もが勿体無い。そこに母親の懐の中に抱きかかれておられるような安住の地があるのだ。
もう私は思います、その内容をちょっと申し上げられませんけれどもです、ね、ある人間関係でもう大変な問題を、ここ二十日余り持って、毎日参ってくる若い嫁さんがおられます。
もう本当にお話を聞いておって、実ない事であろうと。切ないことであろうと。まぁ思うようなことですけれどもです。段々お参りをさせて頂いておる中にですね、その心の上に、そうですね、はっきり大きく言うて三段階飛躍してきたですね。
昨日なんか参って来て御理解を頂いてここへ出てきてから、いうんですよ。もう先生形のことは、お繰り合わせより、心のお繰り合わせを願えと先生が仰って頂いたが、もう先生形の上じゃない、心の上にお繰り合わせを頂くとこんなにも楽なもんでしょうかという事。
その難儀な問題であった、問題がですね、もうややどうでもいいというぐらいになってるんです。それがまぁだ一年、まぁいうなら今までは(門をさーと引いとったの?)がですね、今現在ではどういう事になってくるか、一年でも待てというなら待とう。二年でも待てというなら待とうという気になったんです。
だから、これがまぁちっとです、もうそれは五年が十年になってもという事になってきたらもっとおかしいです、もうですから楽になったことは、楽になった事。兄弟やら親達がですね、もう本当に、この顔色が変わったというて喜んでくれますというて、昨日お届けしております。
その事態というものは一つも変わっていなとですよ。いわゆるその防毒マスクをとったんですよ。そしてお任せするという気にならせて頂いたら、なぁまぁ二年間ぐらいな、いわゆるその人間きってあるけんですね、今の現在では。
けどもその二年間は私は楽だと思うんですよ。ね、それがだから、もう本当にお任せしきると、五年おるか十年でも二十年でもということになってくる時に、その心の状態、そういう心の状態の上にです、今日言うた。
ひとりでに物ができるようなもの、というおかげがうけられるのですよ。ね、そのことをね、私今この始終、お知らせを頂いたことと、この始終苦ということを頂いてから、ははー、それはそういうことが何時も苦労の中にあるのだなと思わせて頂いてから、今日の御理解をと頂いたら。50節です。
ね、ですからこういう50節を今日私が申しておりますような角度から、御理解を頂くのは初めてですね。ですからそういう防毒マスクをつけて逃げまどう、といったような生き方は本当に何時もが、本当に苦しきことのみ多かりきというようにです、ね、「林芙美子?」じゃないけれども、どういうどんなに、例えば有名になり、幸せになる。人からはみては幸せであろうというようなです、ことになっていかれますよ。あの、「林芙美子?」さんも。
大変難儀はところをとおって、そして有名な(売れっ子?)の作家になられました。それでもやっぱり一生がです、苦しい事のみ多かりきというその意味な言葉があるように、それで終わってしまってるいるわけ。
ね、だから信心をいうのは、そこんところに自分の心の飛躍というものがとぎられる。ね、形のお繰り合わせより、心のお繰り合わせを願うというところ。それがですね、そうせんならんじゃなくて、自ずとそういう風にね、開けてくる。心の上にお繰り合わせが頂けてくるところに、信心の有り難さ、教えの素晴らしさを感じます。
ね、そういうことを前提としてです、ならこの、御理解なら50節を今日は読ませて頂くことになったわけなんです。ね、そして、御理解にはとかく、信心は地を肥やせ。常平生から信心の、信心が、常平からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば肥えをせいでもひとりでに物が出来るようなものぞと。ね、ひとりでに物が出来るということ。ね、心を、に肥料を与えるということ。
一つ、ひとりでに物が出来るようなものぞ、というようなおかげを頂きたい。そこで私共がです、もう絶えずその地を肥やす事の努力というか、精進をしていかなければいけないと。
そこにはひとりでに物が出来る。これはいわば無から(よう?)が生じてくるのです。全然ないところからです、ね、良いものが育ってくる。ですから、これはもう不思議な不思議なことなのです。
ね、無から(よう?)が生じてくるというのですか。ひとりでに物が出来てくるのですから。ね、私がこのお広前が建立された時の、報告祭でしたかね、落成祭の時に皆さんにお話を申しました、あんですね、もうそれこそ合楽のここは直ぐそこにある、安田の森という、ね、もう私共の子供の時にはもう恐いようなところだった。
ここに家が建つなんて夢にも思わないようなとこだった。特にこういう日というてです、ね、銅御殿といわれるほどしの立派なお広前が建立された。しかもそれは忽然としてここに出来たようなものであった。
ひとりでに物が出来たようなもの。ひとりでに、それこそ忽然としてここにこういうお広前が建立された。ね、長年計画をして、こつこつとして貯めあげたといったようなことは決してなかった。
ね、そこにはですね、ふし、本当に思いもしない夢にも思わなかったといったような事柄がです、ひとりでに物が出来てくるようなものである。又そのひとりでに出来てくるようなおかげじゃなからなければ本当のおかげではない。
ね、先日からも私は例を持って、このお広前建立のことについて申しましたが、ね、そこの先生が一生(一代?)のうちにどうでんお広前建てんならんというて計画をして、建てられたといったような、無理のある建て方をしたところの、先生方が、それこそ忽然としてですね、亡くなっていかれる。そのいくつ、いくつもの例をお話しましたですね。
自分が建てたと、自分が計画して、自分が一生(一代?)なのにこげんせんならん、あげんせんならんという願いが叶う事は叶うたばってん、叶うた時にはもう自分が命がなかった。
昨日も、私はある教会の事を聞かせて頂いたんですけども、そこは女の先生でなかなかごひれいも立ちますが、その立派なお広前が出来たり、又は奥城が出来たりして偉い盛んなごとあった。と昨日聞かせて頂いたら、そこの先生、もうお一人なんですね。大変具合が悪くて重態だと。それで他所の先生達が、もうはようして跡取りばどうか心配しとかなきゃちいうちから、そのいよりなさったという話しを私は昨日聞かせて頂いたんですけれども。
ね、例え自分が、いうならば我が入って出来たものは、ほんなもんじゃありません。それこそひとりでに物が出来るようなものであろうぞい、といわれるような、ひとりでに物が出来てくる。願いもしなかった、思いもしなかったことが成就してくる。
ね、だからいかに私共がです、ね地を肥やす事に一生懸命になっておけばよいかということが分かります。いわゆる心を豊かに。大きく。ね、しておく事に精進させて頂けばよいかというとが分かる。
そこでその、私共がですね楽から楽を求めて、おかげから、おかげばっかりを求めて、おかげからおかげばっかりを求めて、そのおかげが頂かれてもです、それはいわば本当のことじゃないということが分かるでしょうが。ね、いわゆいる楽から楽も求める。
だから非常に苦しいんです。おかげが頂きたい、頂きたい、頂きたいという。ね、そこで私共がその防毒マスクをひとつ取り外してですたい。自分の思い一つではです、そこに有毒なようなものと思うておったのは、有だくなもの、有毒のものではなくて、毒なものではなくてです、それはむしろ薬になるようなものであった。それは肥やしになるようなものであった。と気付かせて頂く。そこに心のお繰り合わせというもの願わなきゃならんことが分かります。
こんなに難儀な問題。嫌で嫌でたまらんような事柄。それを見方を変えさせて頂いたら、これこそ自分の心には一番かけておるもの。これこそ自分の心がいよいよこれを肥料にするならば、心が豊かになるだろうというような頂き方。
ね、そこんところをお取り次ぎを頂いてその問題を、先ほど若い婦人のことを例を申しましたようにです、二十日余りの間に、私はここでそれを申しました。ようもそこまで心が変わってあの、変えられるお繰り合わせを頂いたねっち。
ね、あんなに泣きの涙の問題が、もう泣きの涙の問題じゃなくなって来た。それは決してあきらめられた来たと言ったような、安易なものでない。信心によって心のお繰り合わせが頂けて行きよいる姿である。
難儀の中から逃れようとするのではなくて、ね、例えばそれは、見方によっては始終苦であり、苦しい事かもしれんけれどもです、ね、そこの中にこちらから一つ飛び込もうという気になる。
ね、いうならば、まぁ厳しい言葉でいうならば、火の中もまた涼しいといったようなですね、境地を目指す。はーもう暑いから、汗んでらん風にじーと、その大祓いやら、天津祝詞でもあげようと。ね、昼の一時の信行き、もうここを閉めきって、皆が上着をきちっと着られて、ほしてもう一生懸命の大祓いを皆があげられるから、つい(つびこめて?)大きくなる。
ね、けれども、はー汗が出るとをいとう人はそろっと、その大祓いでもあげておる。けれど、初めからもう一汗流そうという気の人は、もうそれこそ一生懸命。ですから背中に汗がたらたら流れるのが、むしろ有り難いというような境地が開けてくるようなもんで。
汗が出らなければ、座っておるところが下がじゅくじゅくなっとるち。ぐらいにです、あの一生懸命にならなければ、御祈念した事はないというように、勿論そこははまりです。ね、だからその中に飛び込んで行こうとする、私は心意気といったようなものが、いわゆる元気な心で信心せよと仰るのは、そういうことだと。
だからその事事態は、一軒ですね、本当にこの暑いのにご苦労なこと、上着を着てから汗の、涼しゅうしておいて、上着どんこう開襟シャツどん着てから、そりゃよかろうごたるけれどもです、ね、そういう見方もあるけれども、そこの中によ、より一つの苦労を、の中にですかね。修行を求めて入っていこうとする。
そういう例えば信心です。ね、そこに心の豊かさ、そういう私は生き方こそが、心に肥料を与えていくことだであると思うのです。逃げ惑う心。嫌なことから逃れよう逃れようとする心では、心はもう必ずやせていくばかりです。
肥料をあたえないですから、ね、嫌なことは見ろうごとなか。嫌なことは聞くこうごとなか、そげな損になることは私はご免だというようなことではです、もういよいよ心はやせ細っていく。そして、やはり楽から楽を求めて、防毒マスクをつけて逃げまとうておるように、楽なところはないものか、安住な地はないものかというて、それに(あくせき?)しておる姿こそです、それこそ一生が苦しい事、ことのみ多かりきで終わってしまわなきゃならん。
ね、心を肥やそうということ。ね、その嫌なそのこと。ね、肥料になるといったようなものは、決してきれいなものはありませんよね。大地、その大小便のようにもういらないもの。汚いもの。臭いもの。ね、そういうものが、その土の中にね、えー、なんちいうですか、その肥やすわけですよね。大地を肥やすために、そういう風にいたしますように、もう嫌だと、嫌でたまらんというものほど、肥やしになるということが本当に分かったら、それこそ嫌な問題じゃない。有り難い肥料を頂くということで、そのことを合掌して受けれるようになってくる。信心ちゃ不思議なことじゃね。
そこにです、自分には知らない間に、何時の間にか自分の心というものの上にお繰り合わせを頂き、自分の心が豊かに豊かに有り難いものになってきておる。ね、そこに有り難い勿体無いという種がまかれるのですから、何時の間にか思いもしない有り難い勿体ないおかげが、いわば建立されるとでも申しましょうかね。
忽然とそこに、夢にも思わなかったようなおかげが、ひとりでに物が出来るようなものと仰る、そのひとりでに物が出来て来るようなおかげが受けられる。
私共はだから、その地を肥やすということに専念させてもろうたらよい、ということになるのですけれど。地を肥やそうとはせずに、ね、むしろ、もういよいよ地がやせ細っていくような生き方。
そして、その楽なもの。いわゆる防毒マスクを付けた親子が逃げまどうておるような生涯に終わったんではです、本当に天地の親神様に対しても相済まん事、自分の嫌なことなのです。
ね、そこに信心させて頂くものは開眼する。そこに目を開かせて頂いてです、おかげはおかげも勿論痛ければ痛い。痒ければ痒いで、さすってももらわなならん、かいてももらなきゃならんから、お取り次ぎを頂いてお願いをして、そしてその後には自分自身はいよいよ根を肥やすこと。そのことを持って根肥やしをさせてもらう。
そのことを持って、肥料とさせて頂くといったような生き方。そういう信心の姿勢というものをつくっていく。段々心が肥えてくる。そこには思いもしなかった、願いもしてはいかなかった事柄がです、成就してくるおかげ。
ひとりでに物が出来るようなものであるということは、そういうことだと思う。ね、だからひとりでに物が出来るということだけを夢見ておるといったようなことではなくてです、ね、もういかにして自分の心を肥やすかということを何時も、今度はこの心にどういう肥料をほどこしたなら良いだろうかと、例えばお百姓の方達が、その次の肥料を考えておられるようにです、そして、自然の中に、成り行きの中に、神様がさぁこれが良い肥料ぞといわんばかりに、持って来て下さったのを、どっこいとそれを受けとめて、それを肥肥やし、根肥やしにさせてもらうというかね、大地を肥やすための肥料にさせて頂くような自然の働きにあいまっての心を豊かにしていくおかげを受けるという事。
そこから、物がひとりでに出来るようなおかげ。どうでもひとつひとりでに物が出来るようなおかげをね、頂きたいもんだと思います。どうぞ。
梶原 佳行